脳と身体を緩める ― 2017年02月12日
脳を緩めるとは?
脳機能を低下させることではない。いつでも活動できる状態を保持すること。太極拳の稽古でも、身体は常に緩める。
刺激を感覚受容器から脳へ伝達する過程は、身体の担当とする。
さて、太極拳では、終始、身体を緩めることを求められる。
首、肩、肘、手首、胸、背中、腰、股関節、膝、足首の各部の緩め方を習う。
緩んだ状態は、言わば、赤児のときと同じ。
刺激ー身体ー脳ー身体が一連の繋がりを持っている。四肢がまだ未熟な赤児でも、楽に動ける。だから、全身で動く。
加齢と共に、脳の中に情報が溜まり、「力がすべて」の意識が定着する。
中枢としての脳が全て良しとする唯脳論者になってしまう。
太極拳の稽古で、緩んでいるかどうかチェックは静止時、動作時のそれぞれで行う。タントウや形体訓練と呼ばれる動きで確かめる。
中国語では緩めることを鬆(ソン)という。例えば、ソンヤオとは腰を緩めること。太極拳の太極拳の要諦のひとつ。
昨年のある時、気がついた。
脳の緩め方はどうやるのだろうと。稽古で習ったことはない。
順序としては、各部の緩め方の次には、全身とか、各部の連携弛緩とか、いろいろあると思うが、脳の緩め方に稽古が向かうとは考えられなかった。自分でやるしかない、と決めた。
とりあえず、方法は頭部を緩めることと理解した。
すなわち、頭部を緩めるのは、第二頸椎の軸部分が第一頸椎の環部分に触れないように、頭部を保持することにした。
触れないようにするには、頭部のツボ百会で、上から吊られるような感覚を持つことがわかりやすい。上に引き上げる感覚は力を使うことになる。それでは緩まない。同時に、足裏の3点で重力を感じることが重要。
瞑想か座禅の姿勢がその感覚を教えてくれる。
脳機能を低下させることではない。いつでも活動できる状態を保持すること。太極拳の稽古でも、身体は常に緩める。
刺激を感覚受容器から脳へ伝達する過程は、身体の担当とする。
さて、太極拳では、終始、身体を緩めることを求められる。
首、肩、肘、手首、胸、背中、腰、股関節、膝、足首の各部の緩め方を習う。
緩んだ状態は、言わば、赤児のときと同じ。
刺激ー身体ー脳ー身体が一連の繋がりを持っている。四肢がまだ未熟な赤児でも、楽に動ける。だから、全身で動く。
加齢と共に、脳の中に情報が溜まり、「力がすべて」の意識が定着する。
中枢としての脳が全て良しとする唯脳論者になってしまう。
太極拳の稽古で、緩んでいるかどうかチェックは静止時、動作時のそれぞれで行う。タントウや形体訓練と呼ばれる動きで確かめる。
中国語では緩めることを鬆(ソン)という。例えば、ソンヤオとは腰を緩めること。太極拳の太極拳の要諦のひとつ。
昨年のある時、気がついた。
脳の緩め方はどうやるのだろうと。稽古で習ったことはない。
順序としては、各部の緩め方の次には、全身とか、各部の連携弛緩とか、いろいろあると思うが、脳の緩め方に稽古が向かうとは考えられなかった。自分でやるしかない、と決めた。
とりあえず、方法は頭部を緩めることと理解した。
すなわち、頭部を緩めるのは、第二頸椎の軸部分が第一頸椎の環部分に触れないように、頭部を保持することにした。
触れないようにするには、頭部のツボ百会で、上から吊られるような感覚を持つことがわかりやすい。上に引き上げる感覚は力を使うことになる。それでは緩まない。同時に、足裏の3点で重力を感じることが重要。
瞑想か座禅の姿勢がその感覚を教えてくれる。
2014年決意 ― 2014年04月14日
忘我探求。
忘我の方法を求める。
メモ
・自我とは幻想
身体はネットワークとして機能している。
司令塔があるわけではない。脳という司令塔モドキはある。
・やっかいな自我
「自我意識」は脳の防衛機能である。時には、行き過ぎる。
・「私」を消すことは可能か?
消すのではなく、消えるのでもない。
「私」とは、もともと、脳の思い込み。
・近代的自我の拡がり
唯脳論の勝利。脳を否定するのではない。その機能を理解し、上手に付き合うこと。
・デカルトの考えを納得することの誤り
我思う、故に、我ありとはならぬ。
我は痛みが判る、故に、我ありであろう。
・個人主義とキリスト教
一神教と個人主義は対称形で、親戚同士。
・民主主義の基盤としての個人
民主主義は個人が存在することを前提としている。
・国民国家の成立
国民国家も個人の存在を前提。
・だから、キリスト教と個人主義と民主主義は三位一体であり、一身同体。
個人主義の果てに:
・国民国家の解体とグローバリズム
個人の分散が分人か、個人ではなく分人か。
・分人主義の怖いところ
個人の分断、最小化。消費の拡大に繋がる。一方、多様性の拡大。
結論として、近代的自我の定義が不明瞭になっているのが現状。従って、「忘我」という行為は定義できないし、その方法は存在しない。
となれば、「忘我」ではなく、「自我」の再定義から始めなくてはならないということ。特に、自己と環境との関係性について再び検証してみたい。
忘我の方法を求める。
メモ
・自我とは幻想
身体はネットワークとして機能している。
司令塔があるわけではない。脳という司令塔モドキはある。
・やっかいな自我
「自我意識」は脳の防衛機能である。時には、行き過ぎる。
・「私」を消すことは可能か?
消すのではなく、消えるのでもない。
「私」とは、もともと、脳の思い込み。
・近代的自我の拡がり
唯脳論の勝利。脳を否定するのではない。その機能を理解し、上手に付き合うこと。
・デカルトの考えを納得することの誤り
我思う、故に、我ありとはならぬ。
我は痛みが判る、故に、我ありであろう。
・個人主義とキリスト教
一神教と個人主義は対称形で、親戚同士。
・民主主義の基盤としての個人
民主主義は個人が存在することを前提としている。
・国民国家の成立
国民国家も個人の存在を前提。
・だから、キリスト教と個人主義と民主主義は三位一体であり、一身同体。
個人主義の果てに:
・国民国家の解体とグローバリズム
個人の分散が分人か、個人ではなく分人か。
・分人主義の怖いところ
個人の分断、最小化。消費の拡大に繋がる。一方、多様性の拡大。
結論として、近代的自我の定義が不明瞭になっているのが現状。従って、「忘我」という行為は定義できないし、その方法は存在しない。
となれば、「忘我」ではなく、「自我」の再定義から始めなくてはならないということ。特に、自己と環境との関係性について再び検証してみたい。