西洋式陰陽判断の落とし穴 ― 2006年09月15日
陰陽判断を西洋の思考法である2分法として理解すると、全く異なる判断結果となる。
すなわち、対立が解消できないように見えてしまう。勝つか負けるかの力の解決か、妥協の国連主義の解決となって、しこりが残る。戦後世界の紛争はそこに起因する。
私の陰陽判断における陰と陽は状態を示す属性であって、陰と陽という実体があるわけではない。
存在の状態を陰と陽の多寡をもって表すのが私の陰陽判断である。
対立は環境と内に取込むものによって変化するし、幸い人間は歴史を学ぶことによりその変化をコントロールできると考える。
別の視点から言えば、ものを陰と陽に分けると西洋式陰陽判断となってしまう。
OOは陰である。XXは陽である。とすると西洋合理主義の分析となる。
一方、私の陰陽判断は次のように表現できる。
OOは陰と陽を8:2の比率で、今現在、持っている。だから、わたしにはOOは陰に見える。
XXは陰と陽を3:7の比率で、今現在、持っている。だから、わたしにはXXは陽に見える。
これは、西洋風に言えば、まったく実証的でない。科学的でない。客観的でない。不明瞭。恣意的。とまったくバカにされる。
では西洋の2分法はどうやって成立したのか。
そもそも西洋では、創造主と被創造物との2分法が思想の根幹にある。主と客の2分法と言ってもよい。
この主と客の2分につづいて、ものごとが際限もなく、2分されてゆく。
自分と汝、善と悪、罪人と聖者、生と死、味方と敵、天国と地獄、始めと終わり、自然と人工、リコウとバカ、時間と空間、精神と肉体、愛と憎しみ、正と邪、美と醜、枚挙に暇がない。
その2分法による分析を展開するために、確固たる形式論理学がギリシャ、ローマの時代から続いている。
すなわち、
同一律はAがAならば、A以外ではない。AはAでもあり、Bでもあるということを認めない。
矛盾律でも、AがAでもあり、Bでもあるとすると、矛盾として認めない。
排中律でも、AがAであり、Bでないならば、AがAでもないし、Bでもないということを認めない。
さらに、数学がその展開を支援する。そして、近代科学と技術が生まれた。
基はといえば、この2分法である。
結局、2分法の下では、対立は妥協による歩み寄りで解決するしかない。妥協できないときは対立は永遠に続くように見えてしまう。
今の世界はそんな状況になっている。
ブッシュ氏の思考を見るがよい。典型的な2分法を使っている。曰く、悪の枢軸と善の民主主義社会。
不幸なことに、西洋の2分法は、その社会の常識として、いまや、世界の標準となっている。現代日本でも当たり前。小学校から徹底的に叩き込まれる。
さて、世の中には、この2分法の他に、異なる考え方がいくつもある。
例えば、日本には、東洋的見方と言われているが、2分法で分けられる前の状態を問題にする禅の考え方がある。
私の陰陽判断もそのひとつとしたい。
だが、安倍氏の思考に、この西洋式2分法の危険さを感じてしまう。
参考文献: 鈴木大拙 『新編 東洋的な見方』 岩波文庫 青323-2 小室直樹 『数学嫌いな人のための数学 数学原論』 東洋経済新報社