自由と自然について ― 2006年10月21日
自由についての考えが西洋と東洋では異なる。
福沢諭吉がリバティを訳すとき、仏教用語の自由を使ったと聞いている。
リバティ(選択や行動・発言の権利が保障された状態)とフリーダム(束縛や拘束がない状態)には異なるニュアンスがあるが、何れにしろそれらには自らの意志という概念が含有されている。従って、他者の意志もその対応として意識される。
一方、東洋の自由は根本的に自らの意志がない状態を悟りとして、修行の目標としている。、「自に由る」(おのずからに、よる)という無我の状態である。
自然についてもやはり西洋と東洋では異なる。
西洋では、自然は神の創りしものである。ネイチャアを自然と訳して以来、日本人の自然観は西洋式解釈となった。その結果、古くからある自然との混合が発生していたが、昨今ではすっかり西洋式の自然と同じ定義になっている。
もともと、日本では、自ずから在るものを自然と呼んだ。「自然に」という語法がむしろ適切な表現として使われてきた。