考えないこと ― 2009年12月10日
長らく「論理優先」の生活を続けてきた。
「考える人」を理想像としてきた。
「我思う故に我あり」のデカルト人とも呼ぶ。
それを「直感優先」に変えた。
「考えない人」であり、「行為する人」である。
「我思わざるところに我あり」の発見である。
理由は地球環境問題解決へむけてのささやかな一歩のつもり。
自然を我が物として思うように利用してきたのが「論理優先」のライフスタイルだと思ったから。
石油資源が無限にあると思い込んで、人工物を造り続けてきた現代人には、いよいよ、そのライフスタイルを変える時が来ている。
石油減耗(ピーク・オイル)に備えて、それぞれの人がそれぞれのライフスタイルを再検討しないと混乱を生き抜けないことになる。チャンスは今しかない。
「直感優先」への変化のキッカケは今年の4月から始めたメタボ対策としての身体トレーニングだ。
先ず、走ることが楽しみに変わった。
時速5キロの「スロージョギング」に切り替えた。
歩くことより走ることの方があれこれと運動中の身体のことを考えないことに気がついた。
「身体優先」が実感できる。
2番目は、「太極拳」である。それにより、身体感覚をつかむことを覚えた。
特に、「站樁」(たんとう)という気功の実行で「身体との会話」という楽しみが増えた。
座禅を長らくやって、呼吸法に大いに関心を持っているので、この「站樁」を知ったことで自身の呼吸法がレベルアップしたと思っている。
3番目は「足の裏感覚」の気づきである。
太極拳にしろ、站樁にしろ、足裏の感覚受容器としての機能を重視している。2足歩行を可能にしたヒトの基本的身体能力を支える重要な機能である。
長い間、このことに気がつかなかった。
今では、近所の公園の芝生の上を、「スロージョギング」している。
デコボコ、上り下り、傾斜など地面の状況は刻々変わる。
バランスをとるために、脳がフル回転していることを感じる。
「站樁」については、その実行中に起こる身体感覚をじっくり検討することにしている。たとえば、なぜ、今日は左に傾くのか?前傾になりやすいのか?含胸は?抜背は?重心は踵にあるか?などなど
「站樁」を稽古の基本としている「韓氏意拳」では、自己が自然であることを体認することが肝心と教える。
ヒトは自然である。正確にいえば、人体は自然であるということ。
自然とは、神の設計とは言わないが、人間の設計ではないもの。人間の意識を超えたもの。人智を超えたもの。人工でないもの。
この自然観は現代社会、特に都会では歓迎されない。自然はヒトの外部にあるものということが常識となっている。
自然観の革命が人間の驕りを抑制することにつながっていると思う。だが、人間は彼らの自然観を変えようとはしていない。
ここしばらくは、自然観について学習することに努めよう。
「考える人」を理想像としてきた。
「我思う故に我あり」のデカルト人とも呼ぶ。
それを「直感優先」に変えた。
「考えない人」であり、「行為する人」である。
「我思わざるところに我あり」の発見である。
理由は地球環境問題解決へむけてのささやかな一歩のつもり。
自然を我が物として思うように利用してきたのが「論理優先」のライフスタイルだと思ったから。
石油資源が無限にあると思い込んで、人工物を造り続けてきた現代人には、いよいよ、そのライフスタイルを変える時が来ている。
石油減耗(ピーク・オイル)に備えて、それぞれの人がそれぞれのライフスタイルを再検討しないと混乱を生き抜けないことになる。チャンスは今しかない。
「直感優先」への変化のキッカケは今年の4月から始めたメタボ対策としての身体トレーニングだ。
先ず、走ることが楽しみに変わった。
時速5キロの「スロージョギング」に切り替えた。
歩くことより走ることの方があれこれと運動中の身体のことを考えないことに気がついた。
「身体優先」が実感できる。
2番目は、「太極拳」である。それにより、身体感覚をつかむことを覚えた。
特に、「站樁」(たんとう)という気功の実行で「身体との会話」という楽しみが増えた。
座禅を長らくやって、呼吸法に大いに関心を持っているので、この「站樁」を知ったことで自身の呼吸法がレベルアップしたと思っている。
3番目は「足の裏感覚」の気づきである。
太極拳にしろ、站樁にしろ、足裏の感覚受容器としての機能を重視している。2足歩行を可能にしたヒトの基本的身体能力を支える重要な機能である。
長い間、このことに気がつかなかった。
今では、近所の公園の芝生の上を、「スロージョギング」している。
デコボコ、上り下り、傾斜など地面の状況は刻々変わる。
バランスをとるために、脳がフル回転していることを感じる。
「站樁」については、その実行中に起こる身体感覚をじっくり検討することにしている。たとえば、なぜ、今日は左に傾くのか?前傾になりやすいのか?含胸は?抜背は?重心は踵にあるか?などなど
「站樁」を稽古の基本としている「韓氏意拳」では、自己が自然であることを体認することが肝心と教える。
ヒトは自然である。正確にいえば、人体は自然であるということ。
自然とは、神の設計とは言わないが、人間の設計ではないもの。人間の意識を超えたもの。人智を超えたもの。人工でないもの。
この自然観は現代社会、特に都会では歓迎されない。自然はヒトの外部にあるものということが常識となっている。
自然観の革命が人間の驕りを抑制することにつながっていると思う。だが、人間は彼らの自然観を変えようとはしていない。
ここしばらくは、自然観について学習することに努めよう。