見えないもの、あるいは、存在しないもの、とされているものを観るには特別な方法を身につけなくてはならない。
認識の問題である。
現在、認識論の自然化(自然科学的方法による)は哲学界で議論されているが、わたしは伝統的陰陽論を認識論として再構築することを試みたい。
一般に、見えないものは「存在しないもの」とされている。だが、「存在しないもの」とされているものが見える人がいる。例えば、生存を脅かすような危険を回避する人がいる。
どうしたら見えるのか?
同一性を求めることを擱いて、差異を求めること。これに尽きる。
先ず、モノとコトの定義をする。
モノとは、感覚受容器である五感のひとつが捉える情報。コトとは、意識(脳)が捉える情報。
次いで、認識の目指すものを比べると、同一性認識は意識の仕事。反して、差異の方は身体の仕事となる。
例えば、同一かどうかの判断としての数の違いは意識の仕事である。多いか少ないかの差異の感覚は身体の機能。
陰陽法は差異の判断であるから、モノの判断には使えるが、コトには使えない。意識(脳)はコトしか扱わない。
陰陽法はモノを陰と陽の消長として捉える。動物でも、植物でも可能な感覚である。
陰は拡散エネルギー(遠心)を持ち、陽は収縮エネルギー(求心)を持つ。冷熱や柔硬の感触、高低の音感、昇降や上下の視覚など。(注意!:漢代の陰陽五行説では、皇帝を天と為すことにより、陰陽の逆解釈がおこなわれている。)
同一性を求める意識(脳)は異質を排除する。差異を求めるには身体を使うしかない。すなわち、五感による刺激受容である。
異質を排除すると、異質なものが見えなくなり、存在しなくなる。だから、微妙な差異は意識では捉えられない。身体の感覚によるしかない。
見えないものが見えるようになる訓練は身体感覚を鍛えるしかない。
勿論、陰陽法を使うには、意識より身体感覚を優先する必要がある。