2019年の決意 感覚所与の復権 ― 2019年02月11日
感覚所与の差異は、一般化できない。
一方で、意識の差異は、何でもできる。一般化は勿論。デジタル化だろうと、排除でも、無視でも、意識はやりたい放題だ。
意識そのものは何も制約はない。自然征服でも可能である。
当然だが、意識の始まりの段階では、万能の力を抑制することに人々は努めた。
その後、特に近代になって、意識天国には、ちらほらと課題が出始めた。
だが、意識万能が問題を生んでいることに近代人は気がつかない。
感覚所与についても、取扱い可能であると思ってしまう。
脳優先社会となり、感覚所与に対する受容器の機能劣化についても、まったく問題視していない。
感覚所与を感じるとは、安心感、安定感(穏定感)、違和感、不安感、不安定感などを感じること。
そこで、受容した感覚所与を修正する方法を見出したい。
すでに太極拳の稽古法の中にあることを確認している。
片脚立ちの時の稳定(wěndìng)のやり方を、今年は、より確実にしたい。
一方で、意識の差異は、何でもできる。一般化は勿論。デジタル化だろうと、排除でも、無視でも、意識はやりたい放題だ。
意識そのものは何も制約はない。自然征服でも可能である。
当然だが、意識の始まりの段階では、万能の力を抑制することに人々は努めた。
その後、特に近代になって、意識天国には、ちらほらと課題が出始めた。
だが、意識万能が問題を生んでいることに近代人は気がつかない。
感覚所与についても、取扱い可能であると思ってしまう。
脳優先社会となり、感覚所与に対する受容器の機能劣化についても、まったく問題視していない。
感覚所与を感じるとは、安心感、安定感(穏定感)、違和感、不安感、不安定感などを感じること。
そこで、受容した感覚所与を修正する方法を見出したい。
すでに太極拳の稽古法の中にあることを確認している。
片脚立ちの時の稳定(wěndìng)のやり方を、今年は、より確実にしたい。
他者への関心 ― 2010年07月08日
人生は偶有性にあふれている。一寸先は闇である。
なぜなら、ひとは神の被造物であり、ひとは神の存在、意志、行為を推し量ることは出来ない。神のすべては不可知なのだ。
これは一神教の基にある考え。
だから、不幸にならないためには、偶有性を認めた上で、それに対処できる技術を身につけなくてはならない。
神の言葉もひとは理解できない。ひとが理解できるのはひとの言葉だけである。
拡大して言えば、ひとが理解できるのは、この現実の世界だけである。
科学もこの世のことだけはなんとか解ろうとする。
ひとも、言葉をつかえば理解し合えると考える。
勿論、この世のこととて、まだ解らないことは沢山ある。
だから、セレンディピティ(幸せな偶然に出会う能力)を鍛えることにひとは努める。
そのためには、他人の生き方を学ぶのが良い方法。特に、成功者、偉人の生き方である。
結論は、「伝記を読もう」となる。ただし、この結論は西欧文明の同調者と西欧人への呼びかけとなる。
一方、ヨロズ教では、一寸先を知る必要がない。何事も神の考えのままに生きればよろしい。
万物、神の計らいである。あれこれ考えるな!。
まさに、低エネルギーな生き方である。
そのコツは、万物に宿る神々との対話を絶対不可欠の日常行為とすること。簡単に言えば、常々、神社に参ることだ。
なぜなら、ひとは神の被造物であり、ひとは神の存在、意志、行為を推し量ることは出来ない。神のすべては不可知なのだ。
これは一神教の基にある考え。
だから、不幸にならないためには、偶有性を認めた上で、それに対処できる技術を身につけなくてはならない。
神の言葉もひとは理解できない。ひとが理解できるのはひとの言葉だけである。
拡大して言えば、ひとが理解できるのは、この現実の世界だけである。
科学もこの世のことだけはなんとか解ろうとする。
ひとも、言葉をつかえば理解し合えると考える。
勿論、この世のこととて、まだ解らないことは沢山ある。
だから、セレンディピティ(幸せな偶然に出会う能力)を鍛えることにひとは努める。
そのためには、他人の生き方を学ぶのが良い方法。特に、成功者、偉人の生き方である。
結論は、「伝記を読もう」となる。ただし、この結論は西欧文明の同調者と西欧人への呼びかけとなる。
一方、ヨロズ教では、一寸先を知る必要がない。何事も神の考えのままに生きればよろしい。
万物、神の計らいである。あれこれ考えるな!。
まさに、低エネルギーな生き方である。
そのコツは、万物に宿る神々との対話を絶対不可欠の日常行為とすること。簡単に言えば、常々、神社に参ることだ。