陰陽師であることを隠せ2006年05月19日

なぜ陰陽判断は生きるために有効かについて語る。

陰陽判断は相対的な判断である。従って、生活に陰陽判断を使えば、自動的に、相対的に生きることになる。

陰陽判断において、すべては変化すると考える。変化しないものはないと。同時にこの考え自体も変化すると。

万物流転の考えは絶対的なものを否定する。一神教の持つ絶対性とは相反する。

この相対的にものを見ることが、変化にも対応できるし、絶望にも陥らないし、無駄なエネルギーを使わないでも良くなる。

たとえば、苦しい局面にいるとき、じっと変化を待っていればよい。嵐の過ぎ去ることを静かに待っていれば良い。

たとえば、変化の方向が読める。となれば、仕事にも役立つ。

もうひとつ、存在はすべて相対的なものということから導かれる重要なことがある。

相対的であると言うことは、個体における、時間の流れや空間認識は個体ごとに異なっているということだ。

だから、この世に、同じものはひとつとしてない。このことが多様性を認め、対立を苦しむこともない。

他方、西洋人は時間の流れを絶対唯一のものとして見ている。空間認識についても、誰もが同じ認識を持っていると前提している。

対立というものは、他を認めないことである。「わたしが正しい」との言い合いになる。

日本の伝統文化のなかには、このような相対的な見方が潜んでいる。だから、日本文化は「和」を大切にする。といっても、対立を解消するためにあれこれ行うことをしない。問題を整理して、その対立を提示することで終わる。「和」の精神のポイントである。

もうひとつ、大切なこと。

実生活に、陰陽判断を生かしている陰陽師は、時間や空間に対する西洋人の感覚と異なるものを持っているので、注意しないと、西洋式合理主義を当たり前としている世の中の普通の考えとずれてしまうことが時折起こる。

近代の西洋合理主義は形式論理学を絶対のものとする。

だが、陰陽師はその形式論理学を無視する。

同一律:AはAであるといっても、すぐに変化するし、個体の認識がすべて異なるのだから、そもそもAはAであるといっても、他人にはどう認識されているのかわからない。

矛盾律:AはBである。AはBでない。この命題がともに成立することはないし、成立しないこともない。といっても、個体の認識がすべて異なるのだから、そもそもAはBであるといっても、他人にはどう認識されているのかわからない。

排中律:矛盾の中間はない。といっても、個体の認識がすべて異なるのだから、矛盾は存在するかもしれないし、ないかもしれない。

というように、一見、至極この世は住みにくいことになる。

あくまで、普段は、普通にしていること。ゆめゆめ、陰陽師であることを覚られてはなりませぬぞ!

日本の「和」は相対思考を前提としている2006年05月22日

かって日本人は相対的に生きることが上手だった。

対立があってもそれを紛争にしない知恵を持っていた。

「和」の解釈が西欧の「異なるものをひとつにする」ということでなく、「異なるままに調和」するという意味として長く歴史の中で生き続けてきた。

何故そのような文化が生まれたのかについては、いずれ語る日が来る。

明治維新以降、日本文化の西欧化にともない、絶対を求める思考が明治憲法となり、当然、世の中の主流となり、相対思考はすっかり隅に追いやられてしまった。

「和」の解釈が変化した。すなわち、妥協による西欧的和解という意味となった。

多数決原理も利用された。どちらかに決めざるを得ないことが是認された。社会全体がそのやり方を受け入れた。

新憲法の下では、戦前政治への反動もあり、民主主義の選択が社会全体のコンセンサスとして認知された。疑う人は少なかった。

戦後日本は、この西欧的1元主義を受け入れ、その効用である科学技術の発展を享受した。

教育行政も、その方向で突っ走った。疑う人は少なかった。

だが、ここにきて、この1元主義に異論が出始めている。

例を挙げよう。

養老孟司の相対思考についての指摘  司馬さんも、宗教全般についての該博な知識を背景に、西洋的思考と日本的思考の差異を「絶対」と「相対」の差に求め、世間知と結びついた柔軟な「無思想の思想」へと辿り着いた。 (『文芸春秋』 2006年1月号 特別寄稿没後十年をむかえて「司馬遼太郎さんの予言」p100)

 司馬さんのいう「相対思考」のできる人が最近本当に少なくなった。そのことを数年前『バカの壁』という本に書いたら、存外売れた。 (『文芸春秋』 2006年1月号 特別寄稿没後十年をむかえて「司馬遼太郎さんの予言」p101)

陰陽師は1元論者ではない。万物変化すると観る相対論者である。

行く川の流れは絶えないと観る方丈記の作者もまた、陰陽師である。

ところで、1元論者から相対論者へ宗旨替えをするにはどうするのか?

宗旨替え2006年05月23日

1元論者から相対論者への転換は簡単にはゆかない。世の流れに逆らうという点で難しいといえる。

だが、転換そのものは、普通の日本人なら難しくない。身体の隅々までこの相対思考が働いているからだ。ただし、ビジネスマンとか、教師などの、西洋人のような日本人だと時間が掛かる。

もう一度いうが、相対思考とは、万物変化するということを前提にしているものの見方。変化しない絶対的なものはないという考え。

私もかって1元論者だった。だが、陰陽判断を知ってから、いつのまにか相対論者になってしまった。

陰陽論者は、万物の変化は陰陽の消長だと考える。変化の物理的メカニズムを云々しているのではない。直感的に、万物は陰と陽からなり、その分量をいつも変化させていると観る。陰だけ、陽だけのものは存在しない。

健康のことにしろ、仕事にしろ、学習にしろ、趣味にしろ、課題解決には、その対象の陰陽を見極めて、変化を予測する。あるいは、隠れた陰陽、それぞれを見つけ出す。

そんな陰陽師としての実生活を続けていると、いつの間にか相対思考が身に付く。2-3年は掛かるかもしれないが、それは世の中の常識に囚われていればいるほど長くなる。

子供だったら、1日もかからない。

小泉さんは西欧の形式論理学を金科玉条としている人だから、きっと絶対とか、変わらぬものを信じている人だろう。だから、靖国参拝は、個人の心の問題だと、絶対を是認する発言を繰り返している。個人の認識は常時変化するということをまったく思っていない人である。

時空のゆがみ2006年05月25日

時間は個体ごとにその流れ方が異なっている。同時に、過去、現在、未来と続くと思われている時間軸も、そんな直線時間しかないというわけでもない。循環型の時間軸があってもおかしくない。

私には過去と現在と未来が同居しているし、ときには、過去と現在と未来の境目がなくなる。

空間の認識にしても、友人との違いを痛感することが多い。方向感覚に違いが出てくるのも空間認識の違いがそれを生み出しているのだろう。

万物が認識している時間軸は同じでないし、一様でもない。空間認識についても、誰も彼もの認識が同じと言うことはない。

宇宙は静的な絶対的な存在から、動的な変化する相対的な存在であることをアインシュタインが示した。言い換えれば、人は各人ごとに、さまざまな時空の認識を持っているということ。

アキレスは亀に追いつかないというパラドックスは、この時間と空間の認識が万物一様であるとの考えが前提である。そしてそれがこのパラドックスを生み出した。

西洋的時間感覚から言えば、同地点からの同時同方向スタートだと、このパラドックスは観察者において成立する。

だが、陰陽論における時間は個体ごとに異なる流れ方をするのだから、このパラドックスは成立するかもしれないし、しないかもしれない。

時間の流れ方が人さまざまであるということは、非常識的である。

とはいっても、養老氏のいう都市の中では、脳化社会だから均一に誰にとっても同じに流れている。空間認識も同じということになっている。

人工身体も同じ。均等に、かつ誰でも同じように流れている。

ところが、自然の中では、多様な時間が存在する。

自然身体では各人各様の時間が存在する。

さて、あなたは、時間と空間の認識が各人違うということを実感できますか?

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