時空のゆがみ ― 2006年05月25日
時間は個体ごとにその流れ方が異なっている。同時に、過去、現在、未来と続くと思われている時間軸も、そんな直線時間しかないというわけでもない。循環型の時間軸があってもおかしくない。
私には過去と現在と未来が同居しているし、ときには、過去と現在と未来の境目がなくなる。
空間の認識にしても、友人との違いを痛感することが多い。方向感覚に違いが出てくるのも空間認識の違いがそれを生み出しているのだろう。
万物が認識している時間軸は同じでないし、一様でもない。空間認識についても、誰も彼もの認識が同じと言うことはない。
宇宙は静的な絶対的な存在から、動的な変化する相対的な存在であることをアインシュタインが示した。言い換えれば、人は各人ごとに、さまざまな時空の認識を持っているということ。
アキレスは亀に追いつかないというパラドックスは、この時間と空間の認識が万物一様であるとの考えが前提である。そしてそれがこのパラドックスを生み出した。
西洋的時間感覚から言えば、同地点からの同時同方向スタートだと、このパラドックスは観察者において成立する。
だが、陰陽論における時間は個体ごとに異なる流れ方をするのだから、このパラドックスは成立するかもしれないし、しないかもしれない。
時間の流れ方が人さまざまであるということは、非常識的である。
とはいっても、養老氏のいう都市の中では、脳化社会だから均一に誰にとっても同じに流れている。空間認識も同じということになっている。
人工身体も同じ。均等に、かつ誰でも同じように流れている。
ところが、自然の中では、多様な時間が存在する。
自然身体では各人各様の時間が存在する。
さて、あなたは、時間と空間の認識が各人違うということを実感できますか?