安倍政権の危うさ2007年06月09日

わたしは、この社会の不条理は西洋合理主義の広がりに問題ありとして、東洋の陰陽思想の普及を目指してきたが、それだけではすまない状況が出てきている。

すなわち、安倍内閣による憲法改正問題である。

彼は、合理主義について、資本主義社会の普遍的価値観ということで、西洋合理主義を無条件で容認している。

教育問題では、彼が倫理感を養成することを根本理念とすることは良いが、そのために、国家の役割(国家による目標設定)を強調するという方向に走って、本来、内面的動機である宗教的動機(信仰)の重要性については、全く議論をしていない。

加えて、宗教教育の点では、憲法による政教分離の枠と靖国参拝問題に囚われて、話題にすら出来ないという状況が続いている。

モラル低下を家庭の崩壊と捉えて、家族のモデルを国家が提示するという彼の問題提起は、国家主義者としては当たり前の理屈だろう。

安倍氏の国家観では、国民と国家は一体であるとしているようだ。国家とは国民の集合というレベルの定義だろう。国家の暴力については、全く楽観している。国家の暴力などは、彼の夢にも出てこないだろう。国民と国家との関係が明確でないことが致命的である。

そういう国家観を持った人が、国民でなく国家を抑制する機能を持つ憲法を改正しようというのだから、始末が悪い。

日常生活の見直し2007年06月16日

随時、日常生活の見直しをしていないと、生活は乱れ、結果としては、生活コストの上昇につながる。

そこで、今日は日々の生活を振り返ってみよう。

起床が平日は5時ごろ。土日、祭日は少し遅め。
就寝は9時ごろ。
まあ、良いだろう。起床を日の出とともにする方がよりよいかも知れぬ。就寝をあと30分早めよう。

食事は3食。朝食が少し多目。若干、減らすこと。バター使用量が多い。昼食はうどん・蕎麦を原則。夜はご飯1杯の少なめキープ。
全体に、食事はもう少し減らしたほうが良いだろう。

住居環境は相変わらず荷物が多すぎる。書籍を筆頭に、衣類、道具類が多い。

当面、書籍の整理に努める。

書籍の整理については、これからの生活方針と繋がっているので、整理が進めば、生活がスッキリする。

①「書道」は続けよう。関連書籍は、所持OK。

②「陰陽法の普及」も続ける。桜沢関連書籍の処分を検討する。

③「デイトレード」は日暮しの稼ぎに必要。関連図書は要整理。

④「千歳宮物語」は長期計画。関連書籍は基本的に図書館資料。

⑤宗教関連書籍は②と④とのために、所持継続だが、入替えを進める。

⑥「瞑想」関連は所持継続。

⑦数学とコンピュータ関連書籍は、所持継続。

⑧その他の趣味関連については、年内に方針を定める。

⑨米国留学関連の図書、資料は年内に処分。

⑩会計資料は当面保存。

衣類については、減らす。

道具類は、現状維持。

CD/カセット/Video類は整理に努める。

コンピュータ内部のファイルの整理も積極的に進める。

以上、まあ、こんなところか。

全身全霊で信ずる2007年06月18日

全身で信ずる対象をもつことは、何にもまして日常生活を活力あるものとする。それがなければ、充実感

は得られない。

その信ずる気持ちがある日常は一般的な意味での宗教における信仰生活だけではない。恋人を信ずる。両

親を信ずる。子供を信ずる。会社を信ずる、など。信仰の対象は、森羅万象の何でもよい。

人は神、絶対者などと信ずる対象を太古より持ち続けてきた。現代ではその文化を宗教と呼んでいる。

さて、今の私は、この信仰について、キリスト教と仏教の間でさ迷っている。

10代のころ、キリスト教会を訪ね、受洗寸前で、神の存在に疑念をもって逃げだし、その後、座禅を通じ

て、仏教の「空」に長い間魅かれていた。

40歳のころに、桜沢如一の「無双原理」に強く感化されて、陰陽発想法を生活の判断基準に置いて生きる

ようになった。だが、この陰陽法は発想法であって、信ずる基準・方法ではあるが、全身全霊をあげて信

ずる対象ではない。

50歳を過ぎてからの米国留学時には、クエーカー教徒の集会(Friends Meeting)に出席するようになり、

西欧社会のなかでのキリスト教の存在の大きさを改めて知り、自身でも神の存在を肯定できるようになっ

た。

さらに、身近な人がクリスチャンであることから、今年より受洗希望者として教会に行くようになった。

一方、仏教の「空」の思想にはいまでも強く惹かれる。鈴木大拙の著作を読むたびに、一切が「空」とい

う、徹底して実在論を拒否する仏教には説得力もある。仏教思想を一言でいえば、「色即是空 空即是色

」となるだろう。

一切は「空」と言いながら、その「空」ではなく「色」に溢れているこの世界。西洋論理学では矛盾とさ

れてしまうことを、ぬけぬけと言い放つところが面白い。

ところで、今日、教会でS牧師の広島被爆体験談を聞いた。

凄惨な体験である。

だが、生かされて、生き残った。「私が生きていて何かしなければならないことがあるからこそ神さまは

私を生かしてくださったのだ」と彼は語った。迷ったが、その後、彼は受洗した。

神の絶対性の前では、死も相対化できるものとの言葉が印象的だった。

キリスト教の予定説は仏教の「空」の対極にあるように見えるが、予定説における人間世界はまさに「空

」。すべては神の意志で動く。人間に神の持つような自由はない。今の私には、キリスト教の「神」も仏

教の「空」も同じに思える。

まるで、キリスト教と仏教との境が、さっと無くなったように感じた。
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