変革の厳しさ2010年03月06日

これまで、変革のイロハで書いたことは、実は自身の身体の環境をチェックしなさいということ。 当然、脳は身体の一部だから、脳の癖、言い換えれば、脳のネットワークの繋がるパターンをチェックすることも含まれる。 ライフスタイルの変革を「脳の変化」と考えるなら、茂木健一郎の『脳が変わる生き方』に学べばよい。 だが、もう一つ別の道がある。 変革を「身体の変化」と考える道だ。この場合は、自分で身体を動かして確かめるしかない。 合気道教授の内田樹の著作を読めば、かなりのヒントが頂ける。『私の身体は頭がいい』文春文庫(2007)あたりがお薦めである。 生活の主体である身体を脳から視ることは今様であり、ノウハウ本も沢山出ている。 だが、身体を脳を経由しないで視たり、感じたりすることは、どちらかというと、都会では歓迎されない野生の方法ということになる。 欲望の赴くままというと、表現はキツイが、正鵠を得ているかもしれない。動物たちのやり方である。 といっても、このやり方は都会では、ただいま、カラスが実験中。 ヒトがやれば、カラスのように駆除される。 厳しいものである。

となると、都会に住むヒトは「脳の変化」のやり方を選んでしまう。

そうすると、脳本を漁るということになる。

だが、私にとって、ライフスタイル変革は「脳の変革」ではない。「身体の変革」なのだ。


部分と全体2010年03月09日

脳は、勿論、身体の部分である。

唯脳論は全体(身体)と部分(脳)の関係を部分からの視点で捉えている。

近代医学や科学の方法は、この全体を要素という部分に切り分けて、その部分を視る要素還元論を採用している。

だが、問題がある。部分ばかり視て、全体を視ることができないことである。

なぜできないのか?

部分の総和が全体にならないことがわかったからだ。

福岡伸一氏の『世界は分けてもわからない』(2009) 講談社現代新書 である。

一方、漢方医療では全体からの視点を使う。先ず身体全体の証を診断して、治療に入る。

だが、世間では唯脳論が盛んで、身体に関する話も、脳が身体をコントロールしているということで、すぐに脳の話になる。

世間では、部分と全体の関係を、部分の方から視ることが常識となっている。

要素還元論は、科学の世界以外にも、ビジネスや政治、さらには世間でも、当然のこととされている。

例えば、医療の世界。専門医が大流行りで、家庭医は疎まれている。

専門医のところへゆけば、対象の器官の話は聞けるが、身体全体の話は全く聞けない。

昨年11月に、自転車の乗り過ぎで、左肩の筋肉を傷めた。

近所の整形外科医へ行くと、レントゲン検査と数種の機械で患部へリハビリ処置をして、はい終わり。

身体全体で患部を癒そうとする自然治癒力のことなど、聞きたいのだが、尋ねられる雰囲気ではない。

今時の医者は自然治癒力など信じていないのだろう。

場合によっては、医者は器官を切除することもある。悪いところをとってしまえばよい、という排除の法である。ガンの場合もそれに当てはまる。

患者のことより患部優先で病気を診ている。

だが、生きていることは、身体全体がネットワークを組んで、部分で問題が発生すれば、一気に、身体全体が治癒に向かうのではないか。

脳も、もちろん参加する。

でも、そんな自然治癒力を期待する考えは医療の常識ではない。

私には困った問題だ。医者嫌いになる。

唯脳論では、脳という部分が身体全体を支配しているのだから、脳のことが判らなければ、部分の問題は解決しないと言う。

部分と全体との関係は、絶え間なく変化している。その変化を止めて視ることはできない。推測か、予測か、統計的観察かない。いずれにしろ、変化を認めれば、部分と全体の関係性についての記述はおかしなものになる。

加えて、どのように変化するのか?

陰陽法では、陰陽の消長で変化の結果を知ることができると考える。陰と陽が変化の原因となるのではない。

変化の原因と過程は誰も知らない。複雑系と言われるゆえんである。学者の研究対象でしかない。

一般人は変化の結果を知ること、それで良しとする。病因より病症が大事と考える。伝統医療の法である。

生きてゆくためには、変化を知り、それに対応しなくてはならない。鳥たちを見よ。

彼らは陰陽法を使っている。

それを見て、私も使うようになった。

「道法自然」の実践である。

ライフスタイルの変革を願うなら、先ず、唯脳論を脇において、陰陽法を学んでほしい。

次回は「陰陽法による変革」ついて述べる。

陰陽法による変革2010年03月18日

ライフスタイルの変革は脳の回路を変えることでもある。

確かに、そうだが、どうやって回路を変えるのか?

茂木健一郎の『脳が変わる生き方』には、脳の使い方が述べられている。

様々な身体についての課題を、脳を「偉大な」器官として認め、そこに問題解決の糸口を探ることを、茂木のような脳科学者は疑問を挟まない。

だが、部分と全体の問題が依然として残る。前回書いたように、
部分と全体との関係は刻々と変わる。しかも、変化のメカニズムしろ、動機などはわからない。

さらに、脳の認識レベルのことも課題となる。

すなわち、世間には脳のことなど考えたこともない人が沢山いる。だから、脳の回路を変えろ、脳は変えられる、脳は多様性が好きだ、などと言われても意味不明だろう。

唯脳論の著者養老氏も脳を調べればすべてがわかるというような誤解を招いたと述べている。(『唯脳論』ちくま学芸文庫 1998年 「文庫版のためのあとがき」p261)

結論を言えば、ライフスタイル変革は陰陽法が身に付けば、楽にできる。

先ず、本能に従って行動する。

本能の機能とは?

宇宙の始まりから続いている危機回避のための膨大な情報(経験)を検索して、行動の是非を教えてくれること。危機回避センサーである。

本能がチェックした結果、アラームがでることもある。

その時どうする?

内田樹の方法は「不安」をセンサーとして使う。

(引用はじまり)
不安とか恐怖とか痛みというものは「危機」についてのセンサーである。
「漠然とした不安」というのは「このままの道を進むとたいへん危険なことに遭遇する可能性が高い」という予測シグナルである。
不安を感じたら、立ち止まり、様子を見て、場合によったら針路を変えるというのが生物としての本筋の行動である。
不安を感じないような生物は、無防備に危機の中に突っ込んでしまう。
運が悪ければ死ぬ。
だから不安を感じることは生き延びる上できわめて重要な能力なのである。
けれども、センサーである以上、それはつねに敏感な状態にキープしておかなければならない。
だが、「365日24時間不安である」ような個体において、不安はセンサーとして機能しない。
致死的な危機が接近していても、「いつも不安」である生物はそれを異常事態として分節することができない。
だから、不安というのは、恐怖や嫌悪や痛みと同じように、ふだんは「ニュートラル」にキープしておく必要がある。
私が悲観論者や不安症の人を信用しないのは、彼らが「ほんとうに悲観しなければならない状況」や「ほんとうに不安になるべき場面」に機敏な反応をしないからである。
私はルーティンの厳守とHappy go lucky をつねづね心がけているが、それは危機対応仕様なのである。
「同じルーティンの繰り返し」をしていると、わずかな兆候の変化から、異常事態に気づくことができる。(引用おわり)

だが、わたしの対処は違う。

取り敢えず、本能に従って行動する。世間の常識の範囲内であることは当たり前。まず、行動する方が面白い。本能の力は偉大である。いのちのつながりなのだから。たとえ、地獄に行くことになっても、信じる。(どこかで聞いた台詞)

そして、行動の結果を陰陽のバランス(陰:拡散力が働いている。陽:求心力が働いている)というモノサシでチェックする。

そして、行動の後で、もし「身体全体」のバランスが崩れていれば、回復を行う。

どこを見るか?

食べ物、声、舌、視力、排泄、聴力、筋肉、関節、などなど。身体の部分とか、感情とか、脳の傾向とかでもよい。ただし、部分を見るときは、身体全体のことと、気候を含む環境のことを忘れないこと。

そのチェックの後で、陰が多ければ、減少させるか、陽を取込む。陰が少なければ、増加させるか、陽を減らす。

これが陰陽法の「身体行動を変える」こと。

そして、そのチェックと修正の積み重ねが、ライフスタイルの変革に繋がる。
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